[第8回国防講座]日本国憲法について ~条約・国際法の遵守を~

冨澤 暉 氏(東洋学園大学名誉教授、元陸上幕僚長)

昨年、平成29年5月、安倍晋三自民党総裁が「憲法9条の1項、2項は変更せず、新たに3項に自衛隊を明記し、2020年を新憲法発布の年にしたい」と新聞記事とビデオ談話で発表し、国内外に波紋をもたらした。発言の真意については憶測するしかないが、「与野党の改憲論議を盛り上げ、結果として国民全員が参加したかたちの憲法をつくるための呼び水にする」ということであれば結構だが、もし「自民党憲法改正草案は廃案にして、ともかく現状維持を保障する憲法改正の実績をつくるだけ」とすれば、賛成するわけにはいかない。憲法改正は国民投票によって決められるものなので、国民レベルでの議論が必要である。そして、その代表者たる政治家は憲法の内容について基礎的な知識を積み重ね、地に足の着いた議論を行って国民を誘導してもらいたい。私は政治・法律の素人であるが、国民の一人として約30年間、「憲法9条」について独りで考え、その実証となるものを細々と学んできた者である。これから、憲法に対する私の考え方を述べたいと思う。

その前に、まず、憲法9条の全文を見ておきたい。憲法9条は1項と2項からなり、1項は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」であり、2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」というものである。

一 憲法9条1項の解釈

憲法9条1項については、1928年のパリ条約(不戦条約)とほぼ同じ文言・内容のものであり、1945年に調印・発効した国連憲章とも軌を一にしている。同様の文言が世界各国の憲法にも記述されており、全く問題のないものである。

もっとも、当初のマッカーサーノートでは、放棄するものとして、この部分に「紛争解決の手段としての戦争」と並んで「自己の安全を保持するための手段としての戦争」即ち自衛戦争が書かれていたが、後者の「自衛戦争を否定すること」が非現実的だと考えた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)がこれを削除し、新たに「武力による威嚇または武力の行使」を付け加えたと云われている。

したがって、当時の占領軍側にとって、9条1項は自衛権行使を否定するものではなかったのである。しかるに、南原繁貴族院議員、鈴木義男衆議院議員(日本社会党)、野坂参三衆議院議員(日本共産党)などの「自衛権は認め、侵略戦争の放棄とすべきではないか」といった意見に対し、吉田茂首相は「正当防衛、国家の防衛権による戦争を認めることは、戦争を誘発する有害な考えだ」として、自衛権の放棄を当然と認めた答弁をしたのである。「歴史の綾」というべきなのであろうか、戦後混乱期の実相を映して余りあるできごとである。

この9条をめぐっては、「日本国憲法は占領軍から押し付けられたものだ」、「そうではなく幣原喜重郎ら日本人自らが発想したものだ」などの議論が今なお絶えない。平成29年4月のNHKスペシャル「憲法70年『平和国家』はこうして生まれた」では、帝国憲法改正小委員会において、先述の鈴木義男議員の発言をきっかけに「国際平和を誠実に希求し」という文言が9条に盛り込まれたと報じていた。さらに、その背景には、昭和天皇の1945年9月の勅語「平和国家確立」と幣原前首相のイニシアチブがあり、この観点から、9条は決して押し付けられたものではなく、日本の自主的な発想によるものだと主張していた。そのような見方も否とはしないが、それについてはなお異論もあろうかと思われる。

1951年9月、日本はサンフランシスコにおいて勝者連合47カ国との間で「日本国との平和条約」を結び、それらの国との戦争状態を終結し独立した。ここにおいて「日本が主権国として国連憲章第51条に掲げる個別的自衛権または集団的自衛権を有すること、日本が集団的安全保障取り決めを自発的に締結できること」が公式に認められた。

二 条約・国際法と憲法の平仄

日本の平和条約締結の同日に、内閣総理大臣吉田茂と米国務長官ディーン・アチソンとの間に交換された公文において、「日本国との平和条約の効力発生と同時に、日本国は、国際連合が国連憲章に基づいて行ういかなる行動についても、あらゆる援助を国際連合に与えることを要求する『同憲章第2条に掲げる義務』を引き受けることになる」と述べられていることを知る人は少ない。

日本の国連加盟は、それから5年後の1956年に実現するのだが、この公文は「それを待たず1952年4月から、日本は国連に加盟したと同様の義務を果たさなければならない」と言っているのである。現にこの公文を基に、1954年2月に、「日本国における国連軍地位協定」が日本と朝鮮国連軍参加9カ国との間で締結されたのである。つまり、この時点で日本は国連の集団安全保障体制に組み込まれ、国連憲章に従って集団安全保障上の義務を遂行していたということである。その日本は、1956年に国連に加盟した。この際、加盟申請書に「日本のディスポーザル(意の範囲)にある一切の手段を持って、その義務を遂行する」と記載し、憲法9条を引用することなく、軍事的協力の義務は留保したつもりであったらしい。しかし、このことで後藤田正晴元官房長官と議論したという播磨益夫元参院法制局第3部長は「そんなものが留保になるはずもない。日本は一切の留保なしで国連に加盟したのである」言いきっていた。外務官僚も含め、日本人すべてが条約・国際法と憲法の平仄を考えていなかったのである。

三 自衛権をめぐるごまかし

さかのぼって1946年、政府が国会に提出した憲法改正案は、衆院憲法改正特別委員会のもとに設置された小委員会で修正が図られた。その際、芦田均小委員長の提案で、戦力の不保持と交戦権の否認を定めた9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」との文言が加えられた。いわゆる「芦田修正」であるが、GHQ民生局次長チャールズ・ケーディス大佐は「それは自衛権を認めるものであり当然だと考え、自分自身の判断でその文言の2項への挿入を了解した」と述べているように、占領軍側では自衛権と認めて受け入れられたのに、日本国内ではそうではなかった。「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という曖昧な日本語表現のためであり、また後に芦田均自身が「あれは、当然自衛権はあるという意味で挿入したものだ。そのことは小委員会の議事録にも自分の日誌にも記録されている」と説明したにもかかわらず、その記録が発見されなかったためでもある。爾来、日本政府もこの芦田修正を「自衛権容認」の証拠として使ったことはない。連合国側が芦田修正を認めていたのに、肝心の日本政府が認めないというのは実に面白い話である。

「日本の自衛権は自然権だ」という人が時々いるのもおかしな話である。その根拠は、国連憲章第51条の「inherent right」を日本では「固有の権利」と訳すが、国連憲章の仏語文書では「自然権」となっているためのようである。集団的自衛権という人為的に創られたものが含まれている以上、仏語訳の方が間違いだと考えているが、いずれにせよ「日本の自衛権」はという表現はあり得ない。

日本だけが国連憲章上の「自衛権」を用いず、本来個人を対象とした自然権としての「自衛権(実は正当防衛権)」を使うという法的理由を明らかにして欲しい。「戦力はこれを保持しない」と言いつつ、「自衛上必要最小限度の自衛力は持つ」というのは明らかなごまかしである。

四 交戦権という言葉の意味

「国の交戦権はこれを認めない」の「交戦権=right of belligerency」という言葉は、国際関係法辞典にもなく、この日本国憲法を除き公式用語としては存在しないものである。日本ではこれを「交戦する権利」と誤解する人が多いようだが、「交戦国としての法的地位の権利」と訳すのが正しいらしい。私の推測では、ケーディスたちはこれを「交戦資格」と間違えたのではないかと思う。現にケーディスは、その後、古森義久、西修との両対談において「交戦権という言葉はホイットニー局長がくれたノートに書かれてあったのでそのまま憲法草案に挿入した。交戦権ということが理解できなかった。正直なところ今でも分からない」と言っている。

もしこれが交戦資格のことだとすれば、国軍のみならず、一定条件を具備する民兵・義勇兵団にも適用されるものであるから、占領下にしても憲法を持とうという国家に「これを認めない」ということはあり得ない。要するにこの「交戦権」の問題は日米両国の「同罪の過ち」なのである。個別的自衛権により戦闘する国または部隊はすべて交戦資格を持つのに、憲法学者たちはこの「交戦権・交戦資格」の問題についてはなぜか口をつぐんでいる。少なくとも「個別的自衛権はある」という学者は、「交戦権(交戦資格)を認めない、というこの文言は憲法98条2項(条約及び国際法規の遵守)に違反することになるので憲法から削除せよ」と率先要求すべきではないのか。

五 議論なき改憲には反対

これまで述べてきたように、憲法9条1項、2項ともに、各種の「間違い」、「勝手な思い込み」などがあり、議論が残っている。当初に述べたように、こういう議論をこれから大いにやって新憲法をつくろう、ということであるならば大変結構なことだが、過去の間違いに目をつぶり、議論なしで現状の自衛隊を認めようとするだけの改憲ならば、私は反対である。安倍晋三自民党総裁は「憲法学者から違憲と言われないものにしないと、立派にやっている自衛隊員に申し訳ない」と言っている。私の周りの自衛官OBにも、この言葉に感激し「是非そうして欲しい」という人たちが確かにいる。

しかし私は、もう60年も前から「違憲自衛隊」と憲法学者に言われ続けており、憲法学者というものは「そういうものだ」と肝に銘じている。私が一番恐れるのは、これまで信頼度の高かった自衛隊が国民的な議論もなく「やはり違憲だ」と判断されることであり、仮に合憲となっても、外国の軍人たちから「前と変わらないじゃないか」と嗤われることである。国民からの人気と支援は無論欲しいが、それは時勢により大きく変わるものだということを何度も経験した。だから「大いなる精神は静かに忍耐する」という言葉をかみしめつつ、耐えてきたのである。

私個人の憲法改正についての永年の願いは、①「交戦権はこれを認めない」という文言を憲法から削除する、②集団安全保障(PKO・有志連合軍を含む)における武力行使を認める、③「自衛隊」という名称だけは「国軍」、「国防軍」、軍という言葉に国民の抵抗があれば「防衛隊」に変えて欲しい、という3点であった。

現憲法は英米法であると先に述べた。したがって、過去において「自衛権なし」から「個別的自衛権はあり」と、「個別的自衛権のみ」から「限定的集団的自衛権もあり」と改憲せずして解釈を変え、国際情勢に柔軟に対応してきたわけである。そのことを考えると、①と②は憲法98条2項の「国際法規の遵守」により正しく解釈し直すことができるかも知れない。だが③の「自衛隊の名称」だけは、新憲法で明確にして欲しい。

「我われは軍隊でなく自衛隊だ」というと、多くの外国軍人たちは「正当防衛軍」かといって嗤う。彼らにとって「国際法上の自衛」も「国内法上の正当防衛」も同じ「Self Defense」であり、国際法用語をめったに使わない彼らは、「自衛隊は正当防衛軍・護身軍」と誤解する。「自衛隊は、国や世界の平和ではなく自分自身を護るのか」というわけである。世の中の軍人同士が防衛交流により世界の平和に協力し合う現今、外国軍人に馬鹿にされるということは、日本の憲法学者たちに無視されることよりもなお辛く、外交の背景として世界・日本の平和(秩序)に資するという本来の任務を損ね、自衛隊員の士気を大きく低下させる。それを政治家・国民に理解して欲しい。

六 「現実的」かつ「発展的」方法

安倍晋三総裁発言の10日ほど後に、自民党の下村博文幹事長代行が、「現憲法9条の後に、『9条の2』という別条項をつくり、そこに『前条の規定は自衛隊を置くことを妨げるものではない』と書く案もある」と述べた。これは確かに一案のようにも思えるが、その場合の「自衛隊」とは何であるのか、また9条2項と「自衛隊」はまったく無関係なのか、その説明は憲法内に記すのか、一般法で示すのか、などの難問が山積している。その説明がうまくできてもできなくとも、憲法学者たちは相変わらず字句の解釈に終始するであろうし、自衛隊の実態は現状に固定され、一歩の前進も期待できないものとなる。それは「改悪」である。

ここまでくると、憲法改正を当分先送りするしかない。代わりに憲法98条2項に基づき、条約・国際法などの現実を国民によく説明した上で、交戦権(交戦資格)の問題と集団安全保障における武力行使の問題は英米法らしく解釈を変更し、自衛隊名称変更は元来憲法にないのだから、国民の理解を得て防衛二法「自衛隊法」と「防衛省設置法」の変更または「防衛基本法」の設置によって解決していくのが現実的であり、将来への発展を約束する道だと信じている。

(平成30年5月25日)

「逆説の軍事論」引用

新潮社Foresight(フォーサイト)引用

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